死刑 囚 最後 の 朝

お金はどうするのか? 頭が真っ白になり途方に暮れました。 しばらくしてようやく祖母と連絡がつきました。すると祖母は『お前は3カ月そっちにいろ。生活費は何とかするから。忙しいからまた連絡する』と言われ、何が何だかわかりませんでした。それからまた少し経って祖母から連絡があり、事件について聞きました。関根なら事件を起こすことはありうる、でも母親が一緒と聞いて愕然としました。 関根に脅されてやったのだろう、何かの間違いだろうと思いました。思い起こせば、最後に会った母親は飛行機に乗り遅れないよう、送り出すのに焦っている感じでした。『忘れ物はないか?

「何十年も経ちましたが、全て鮮明に覚えています」元刑務官が語った死刑執行の瞬間 【Abema Times】

13人のうち、7人の死刑が執行されたオウム真理教元幹部たち。邪教への信仰を抱き続けた者、麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚の欺瞞(ぎまん)に気づいた者…それぞれの思いを抱きながら、死への旅に立った。その断末魔とは?

1995年3月20日、東京都心を走る地下鉄の車内に有機リン化合物の神経ガス「サリン」が散布され、死亡者8人を含む約600名もの人々が被害を受けた。事件から2日後、警視庁はオウム真理教に対する一斉捜査を実施し、事件に関与した信者を次々と逮捕。日本中を震撼させた事件に携わった犯人たちには厳しい処罰が下された。 【写真】この記事の写真を見る(4枚) ここでは別冊宝島編集部による書籍『 死刑囚200人 最後の言葉 』(宝島社)を引用し、オウム死刑囚たちの最後の様子をまとめて紹介する。大罪を犯した死刑囚たちは、最終的にどのような覚悟で刑に臨んだのか。彼ら一人ひとりの事件への向き合い方を見ていこう。(全2回の1回目/ 後編 を読む) ◇◇◇ 「教祖」執行前の最後の一問一答 まずは、麻原彰晃(享年63)である。 いつものように朝食を終えた麻原は、朝7時40分ごろに突然、出房を命じられる。麻原は抵抗することもなく刑場に連行されたという。 7時50分過ぎ、死刑の執行が告げられる。 「お別れの日が来ました。教誨はどうしますか」 一応、宗教家を自称していた麻原に「教誨」とは皮肉なことこの上ないが、麻原は無言だったという。 「じゃあやらないんだね。言い残したことはある? 」 「……」 「遺体の引き取りはどうする? 」 何も答えない麻原に刑務官が問いかけた。 「誰でもいいんだぞ。妻とか、次女、三女、四女……」 するとここで麻原が反応した。 「ちょっと待って」 麻原は少し考え、こうつぶやいた。 「四女」 刑務官が念を押して確認した。 「四女だな」 すると麻原は「グフッ」といった声を出したが、その後遺言のようなものはなく、淡々と死刑が執行されたという。 だが、麻原が「四女」を指定したという話を信じられないという人間もいる。2008年以降、親族、弁護士を含め誰も面会できない状態だった麻原の精神状態は誰にも分からず、本当にそのようなコミュニケーションが取れる状態だったのか、確かに疑わしい部分はある。麻原の遺骨は引き取りをめぐって紛糾し、いまも東京拘置所に保管されている。 【関連記事】 【後編を読む】「1日も早く、死刑囚から生還せねばと」林眞須美、加藤智大、木嶋佳苗…凶悪殺人犯が獄中で残した"言葉" オウム裁判で下された「誰も殺していない男」の死刑判決 その運命の分かれ道 不貞腐れた男と号泣した男…地下鉄サリン事件「実行役」が法廷で語った言葉 「殺しちまえばいいじゃないスか」クリスチャンの被害者がオウムのサリン製造者を凍りつかせた瞬間 「男子中学生に淫らな行為」で逮捕 横浜の40歳人妻が見せた"裏の顔"

June 16, 2024, 6:42 pm