細谷 功 具体 と 抽象

【3分解説】002具体⇄抽象練習問題 | 具体⇄抽象トレーニング〈細谷功監修〉【ビジネス・ビジネス書・ビジネス本 】家で一緒に学ぼう!| StayHome - YouTube

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哲学をやっていると(実は、この言い方自体がかなり嫌なのだが・・・)、かなりの確率で言われることがあります。(面と向かってでも、そうじゃなくても) それは、「哲学は、簡単なことを難しく考えている」という趣旨の感想というか、ご批判です。 これ、もう耳にたこができる位、言われたり、見かけたりするので、もはや反論する気も起きなくなってしまいました。 しかし、これではいかんと!と一念発起。 で、ご紹介したいのがこちらの本です。 細谷功『具体と抽象~世界が変わって見える知性のしくみ』dZERO、2014年初版 2つの「哲学」 「哲学」とは何か?と問われますと、広義と狭義で二通りの答えがあるでしょう。 広義には、その発祥たる古代ギリシアでの原義「フィロソフィア」(知を愛する)から、知的営為や学問し全てを意味する。との説明。 狭義には、形而上を問題とする形而上学として。 前者はともかく、この後者が曲者で、「形而上」ってなんやねん?となるわけです。 多くの人の「哲学わからん」もこの後者のことを言っているのでしょう。 (なので、以下この形而上学としての哲学に絞ります) 形而上があるからには、形而下があるわけで、この辺りまで来ると、皆さん顔をしかめ始めます・・・ ですが、今回ご紹介するこの本は、この一見小難しい課題を、とてもわかりやすく解説してくれちゃいます! 本書で言う、具体と抽象とは、即ち形而下と形而上です。 なんのこっちゃ、と思われるかもしれませんが、本書を読めば、それがわかります! 結局、狭義の「哲学」(形而上学)とはなんじゃらほい?の答えは・・・ 本書を読め!に尽きるんです。 なぜなら、本書で言う、「抽象化」の極北がいわば「哲学(形而上学)」のことだからです。 徹底的に抽象度を高めた学問の代表が数学と哲学です。ざっくり言ってしまえば、抽象化の対象を論理の世界だけで説明するもの、つまり純粋に理論的なものが数学です。対象が人間の思考や感情など、理論や論理だけでは説明がつかないものが哲学ということになるでしょう。 細谷功『具体と抽象』dZERO、2019年、43頁。 いつも哲学を説明するときに、「哲学は言葉で行う数学」だと説明しています。 数学のような答えを言葉でやろうとしているんです。(かなり無茶なのは百も承知) その苦闘、四苦八苦してきた歴史が哲学史と言えるかもしれません。 再び、「哲学は簡単なことを難しく考えているのか?」 「具体と抽象」をここで説明し出せば、本書を丸写ししてしまうことになってしまう(!

抽象化とは複数の事象の間に法則を見つける「パターン認識」の能力ともいえます。身の回りのものにパターンを見つけ、それに名前をつけ、法則として複数場面に活用する。これが抽象化による人間の知能のすごさといってよいでしょう。(p. 33) 抽象化が上がれば上がるほど、本質的な課題に迫っていくので、そう簡単に変化はしないものです。「本質をとらえる」という言い方がありますが、これもいかに表面事象から抽象度の高いメッセージを導き出すかということを示しています。(p. 57) 数値目標や「形式をしばる」のは具体レベルでの目標設定にすぎないので、時に「本末転倒」が起こりますが、「実行重視」の人ならばその心配はありません。そんなことは百も承知の上で、あえて「形から入る」ことを確信犯で選択します。「抽象的な理想論」はその場では格好良く見えても、結局は実行につながっていないことがよくあるため、そのほうが行動に直接つながることをよく知っているからです。(p. 108) アナロジーを利用したアイデア抽出の場面では、このような考え方がとくに重要になります。表面的な類似性でなく、関係性や構造レベルでの共通点と相違点に目を向けること、そして「要するに何が大事なのか」という本質レベルで共通点や相違点に目を向けること、それができれば抽象化というツールを最大限に生かすことができます。(pp. 124-125) 福沢諭吉は「高尚な理は卑近の所にあり」という言葉を残しています。まずは徹底的に現実を観察し、実戦の活動を通して世の中の具体をつかみ、それを頭の中で抽象化して思考の世界に持ち込む。そこで過去の知識や経験をつなぎ合わせてさらに新しい知を生み出したのちに、それを再び実行可能なレベルにまで具体化する。これが人間の知とその実戦の根本的なメカニズムということになると考えられます。(p. 129) 日常生活で言語として使うだけなら、「日常英会話」と同様、単語と慣用表現などの「日常日本語会話」だけ学べばよいのです。それをわざわざ膨大な時間をかけて、難解な長文を要約したり、自分の考えをまとめたりする練習をするのは、抽象と具体の往復運動という頭の体操のためなのです。そこが「国語」という教科が、単に「英語」とどうれるの「日本語」ではない決定的な違いといえます。(p. 132)

May 13, 2024, 6:22 pm