怨霊になった天皇

と思いきや、崇徳天皇の讃岐国での生活は、寂しさこそあれ恨みを抱く気持ちはありませんでした。 思いやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを 保元の乱を引き起こした原因は自分にあるとでも考えていたのか、戦乱のために命を落としたものたちの霊を慰め、自分の責任の大きさを省みる日々を送っていました。 仏教の教えを深く学び、その功徳によって報われなかったものたちを救おうと考えたのでしょう。 五部大乗経を写経したのです。 この五部大乗経をすべて写経すると、仏教をすべて学ぶと同じ功徳が得られるといわれるありがたい教えでした。 写経した五部大乗経の5つの写本を京都にあるお寺に納め、戦死者の供養をして欲しいと朝廷へ送ります。 後白河天皇 崇徳のやつめ、俺を呪おうというのだな!! 怨霊になった天皇 本 感想 ブログ. 長年の確執で疑心暗鬼になっていたのか、後白河天皇は写本を納めることを拒否しただけでなく、崇徳天皇の元へ送り返したのです。 ひどく頭痛に悩ませれていたといわれる後白河天皇ですので、心を病み冷静な判断ができなかったのかもしれません。 一文一文に極楽浄土への功徳を込めた写本を送り返された崇徳天皇は、ついに心が折れてしまいます。 この経を魔道に回向し、魔縁となって遺恨を散ぜん! 崇徳天皇は烈火のごとく憤り、舌を切ったその血で写本に呪いをかけます。 日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん! 血染めの写本を海へと放り投げると、爪や髪は伸び続け夜叉のような顔となり、最期には生きながらにして天狗となったといわれます。 生ける妖怪となった崇徳天皇は、怒りのままに46歳まで生き続け、1164年(長慶2年)に命が尽きます。 死んでもなお、崇徳天皇の恨みは収まりませんでした。 崇徳天皇の遺体を納めた棺桶からは血が溢れ続け、腐ることもなく、まるで生きているようだったといいます。 焼いた遺体からは紫色の煙が立ち上り、京の都へ向かって流れていきました。 しかし、史上最恐といわれる崇徳天皇の呪術が、京の都を恐怖で覆うまでには、まだしばらくかかるのでした。 ″裏切者には永遠の苦しみを″崇徳天皇の呪術が京の都を襲う! 崇徳天皇がこの世を去ってから12年が経った1176年(安元2年)。 突如、後白河天皇の関係者が、次々と亡くなります。 6月に息子嫁の高松院が亡くなると、7月には後白河天皇の皇太后・建春門院が、8月には孫・六条院が亡くなります。 9月には、保元の乱で崇徳天皇と敵対した藤原忠通(ふじわらのただみち)の養女も亡くなったのです。 たった4ヶ月の間に崇徳天皇と対立した関係者が4人も亡くなりました。 もしや、崇徳様の呪いではないのか??

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1200年の祟り神 - 爺さんが伝えたいこと

藤原氏を恐怖のどん底に追いやった死者の凄み 「受験の神」「学問の神」として日本人に親しまれる菅原道真は、かつて怨霊として恐れられていた(写真:/アフロ) 今では「受験・学問の神」として多くの学生たちに親しまれる菅原道真だが、それ以前は「怨霊」として多くの時の権力者たちから恐れられていた。いったいどういう経緯で、道真は怨霊から学問の神という大転身を果たしたのか?

愛した男は養父!白河法皇と子をなし西行を惑わす待賢門院璋子の魔性 | くろーるブログ

奈良時代には、非業の死を遂げた早良親王の"霊"が、怨霊となって祟ったと一般的に信じられていた。現世に本当に″魂″を出現させたかどうか定かではないが、兄・桓武天皇に対して、深い怨みを抱いていたことは間違いなく、その死の影響を宮廷内外の人々が怖れていた。 怨霊は本当に祟るのか?

もぐたろう 今回は、日本3大怨霊の1人として有名な 崇徳天皇 すとくてんのう について、わかりやすく丁寧に解説していくよ! この記事を読んでわかること 崇徳天皇の生涯はどんな生涯だったの? 崇徳天皇はなぜ怨霊になったの? 崇徳天皇が怨霊になった時の様子を知りたい! 日本には歴代何百人という天皇がいます。崇徳天皇はその歴代の天皇の中でも、おそらく5本の指に入るほど不幸な生涯を歩んだ天皇です。 今回は、そんな崇徳天皇の生涯に迫ります! 愛した男は養父!白河法皇と子をなし西行を惑わす待賢門院璋子の魔性 | くろーるブログ. 崇徳天皇の複雑な生い立ち 崇徳天皇の不幸は、その生い立ちから始まります。 崇徳天皇は1119年、 鳥羽天皇 と 藤原璋子 ふじわらのたまこ との間に生まれた子供でしたが、母である藤原璋子が何かと評判の悪い女でした。 藤原璋子は、 白河法皇 の養子として育てられ、しかも、その美貌から白河法皇とは愛人関係にあったと言われていたんです。 白河法皇は、その藤原璋子をなんと自分の孫に当たる鳥羽天皇に嫁がせます。つまり、白河法皇は孫に自分の愛人を嫁がせた・・・ということです。 もぐたろう なんかもう、この時点ですでに嫌な予感しかしないんだけど・・・ そのため、鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれた崇徳天皇には、こんな噂が広がるようになります。 崇徳天皇は鳥羽天皇の子じゃなくて、実は藤原璋子と愛人関係にあった白河法皇の子供なんじゃね? 人間関係ドロドロすぎワロタwww もちろん噂であってその真偽は不明です。 しかし、少なくとも鳥羽天皇は、息子である崇徳天皇のことを生涯 忌 い み嫌っていました。 崇徳天皇の即位 1123年、まだ幼い崇徳天皇が天皇即位します。 この天皇即位には、白河法皇の意向が強く働いていました。白河法皇は天皇家の長老として、崇徳天皇を後見する( 院政 を敷く)ことで、権力を振おうと考えたのです。 そして、これに納得いかないのが譲位したばかりの鳥羽上皇です。 鳥羽上皇は、天皇時代は院政を敷く白河法皇の言いなりで、上皇になってやっと次は自分が院政を敷けると思っていました。それなのに、上皇になった後も引き続き白河法皇が権力を握り続けたことで、鳥羽上皇は天皇・上皇を通じて自ら何もすることができず、己の無力さを痛感することになります。 そのため、鳥羽上皇は白河法皇のことを良く思っていませんでした。さらに厄介だったのが、先ほど紹介した噂話です。 鳥羽上皇 白河法皇が崇徳天皇の後見にこだわるのは、権力が欲しいだけじゃなくて、実は白河法皇が崇徳天皇の父親だからなのでは?

June 1, 2024, 6:07 pm