神話の解凍――『ウィンター・ガーデン』再考 – 転轍される世界

2019年5月1日から始まる日本の新元号「令和」の出典と発表されたことがきっかけで、万葉集がちょっとしたブームになっているという。 出典とされたのは、万葉集巻5の梅花の歌32首 (さらに6首を追加) の序。天平2年 (7… 全文を読む 夏の甲子園での高校野球が始まると、野球好きの血が騒ぐ。 私自身は生来の運動音痴で、もっぱら「観る」方の立場ではあるが――高校野球にせよプロ野球にせよ――野球にまつわるさまざまな記憶は、これまでの人生の節目節目に、かなり濃… 夜会Vol. 17『2/2』の初日の感想でも書いた通り、夜会Vol. 17『2/2』のエピローグともいうべき第3幕「鏡の中の夏」は、杉本和世の美しい高音のスキャットによる「彼と私と、もう1人」とともに幕を閉じた。 初日は幸運… 「神話の解凍――「ウィンター・ガーデン」再考」で、「神話する身体」というエッセイを引用させていただいた能楽師・安田登氏の著書、『異界を旅する能――ワキという存在』 (ちくま文庫、2011年6月) を読んだ。 期待通り、と… 「神話する身体」 少々季節外れの話題になってしまうが、先日たまたま今年度の某国立大学の入試 (二次試験) の国語の問題を見ていて、能楽師・安田登氏の「神話する身体」という文章が目にとまり、とても興味深く読んだ。 出題部分… 投稿ナビゲーション

夜会Vol.11/12 『ウィンター・ガーデン』 – 転轍される世界

11/12「ウィンター・ガーデン」 (2000年/2002年) の舞台に接したファンの方なら、私がこの文章に強い興味をひかれた理由を、直感していただけるのではないだろうか。 「ウィンター・ガーデン」では、その物語の舞台である、凍原に立つ GLASSHOUSE ――その傍らに立ち、そこに暮らした者たちをじっと見つめつづけてきた槲の〈樹〉の役を、能楽師/能役者が演じた (VOL. 11では佐野登/波吉雅之/渡邊他賀男のトリプルキャスト、VOL. 12では佐野登) 。 ちなみに、上記の文章の著者、安田登氏は、少し検索してみると、佐野登氏や波吉雅之氏とも何度か同じ舞台に立っているようだ。 私は、能――に限らず、日本の古典芸能一般――に関しては、恥ずかしながらまったく不案内な人間である。 また、中島みゆきが、『ウィンター・ガーデン』の上演当時のインタビュー等で、能楽師/能役者を共演者に招いた理由や意味について何か語っていたのかどうか、私は寡聞にして知らない。 が、上記の文章は、その理由や意味を考えるうえで、きわめて重大なヒントを与えてくれるような気がする。 この記事では、そのことを手掛かりにしつつ、『ウィンター・ガーデン』の舞台の記憶を辿りながら、上演から早や10年ほどが経つこの夜会の意味について再考してみたい。 「自然」と人間の生 『ウィンター・ガーデン』は、これまで16回にわたって上演されてきた夜会の中でも、おそらく最も特異で実験的な舞台である。 台詞に代えて、約50篇もの詩を用いた朗読劇というスタイル 中島みゆきが、普通の意味での物語の主役である〈女〉ではなく、最初は脇役のようにもみえる〈犬〉を演じたこと そして上述のとおり、能楽師/能役者が共演者として招かれ、〈樹〉としてキャスティングされたこと 以上の3点だけをみても、他の14回の夜会には例をみず、この舞台の特異性が明らかに際立つ。 しかもVOL. 11/12は、DVD「夜会の軌跡」に収録された数曲を除き映像化されておらず、また唯一の公式資料ともいえる詩詞集『ウィンター・ガーデン』 も、長らく品切れ状態で入手困難のままであり、直接に舞台を観た者でなければ、きわめて全貌がつかみにくい。その意味でも、謎や神秘に包まれた夜会でありつづけている。 なお、詩詞集『ウィンター・ガーデン』 については、 「復刊ドットコム」に復刊リクエスト が出されており、私も賛同した一人である。このブログの読者の方々にも、できればご賛同いただけると大変ありがたい。 しかしそうした特異性の一方で、VOL.

中島みゆきがライフワークとして取り組んでいる言葉の実験劇場 『夜会』 。 1989年から始まり、2019年時点で、VOL. 20を迎え、そのほとんどがBD/DVD化されているのだが、なぜか、2000年と2002年に上演された 『ウィンター・ガーデン』 は現在までBD/DVD化されていない。 いったい何故なのだろう? なぜ『ウィンター・ガーデン』は映像化されていないのか? 『ウィンター・ガーデン』 だけぽっかり穴が開いたように、DVD化されないのは、すこぶる違和感がある。 中島みゆきは、2000年12月号 「日経エンタテイメント!」 のインタビュー記事の中で、中島みゆきは、映像化しなかった理由についてこのように答えている。 「今までの 『夜会』 はフィクションから始まったけど、今回は日常から始めようかなって思ったので。 それとライブである、1回限りのものだって点を考え直してみたくなりました。 その意味で今回は映像収録もしません」 つまり、非映像化は中島みゆきのポリシーによるものだったのだ。 また、別のインタビューでは、撮影すればいろいろな制約が生じるため、 『ウィンター・ガーデン』 はそれを許容できる性質ではなかったとも答えている。 『ウィンター・ガーデン』ってどんな舞台だったのか?

June 1, 2024, 5:43 am